昭和49年03月30日 朝の御理解



 御神訓 一、「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ。」

 「泥棒を捕まえて縄をなう様な」と云う諺があります。もうそれでは間に合わないと言う意味なんです。倒れかかって、さあ杖と言うてももう間に合わない。「信心は前から倒れぬうちの杖」と、いわゆる倒れぬ前に信心を頂いとかなければならないと云うのは、信心に切り替えとかなければいけないと言う意味です。「信心は見易い物じゃが、氏子から難しゅうする」と、何故難しいかと言うと、おかげが先行しておるから難しいんだ。昨日の御理解ですね。
 おかげを受けなければならんと云う、それが先行しておるから信心は難しいのです。信心は見易い物だ、そこで、いわゆる信心が、此処でも只拝むとか参るとかと云うのが信心じゃないですね、杖になる程しの神様、杖になる程しの信心ですから。「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と仰せられるその杖なんです。それはいわゆる信心です。「はあ一生懸命お参りしてそりゃおかげ頂きますよ」と言うのじゃない。本当に一生懸命お参りしますと。
 信心が判って来れば来る程、心も広くなって来る。心も有難うなって来る。それが有難いのだ。そう云う楽しみがあるから信心がみやすうなって来る。ですからその信心が杖になる様な、信心でないといけないと思う。昨日野口さんの所の恒例の謝恩祭が御座いました。遠方に行っておられる子供さんたちも、親戚も皆集まって、まあ本当に、あちらは大体お母さんの信心が中心でしたのですけれども、丁度あの様な一年前亡くなられた。その後の信心があの様にして続いて。
 あの様な、例えばお母さんがおられた時よりももっと言うなら念の入ったと云う様な感じのお祭りが出来ると云うだけでも素晴らしいと思うんです。あがしこ家の母が信心しよったけれどもあんな事故に遭って亡くなる様な事になった。と言うて言うなら信心がもう其処で挫折しても仕方がない様な感じの中にです。あがして信心が銘々子供さん達の信心も、いやあ信心のなかった、それに抵抗しておった子供さん達までも、信心に段々なって行っておる。そしてその昨夜のお祭が。
 参拝になった方はそれを感じられたでしょうけれども、本当に素晴らしいお祭でした。だからそれだけでもまあ言うならば、尊い事だと思いますけれども、御神前にお花のお供えがしてあった生花の。生花と云うのは生の花と云うんですね。それに中心に高く白百合の花が二本さしてある。そして丁度真ん中に桃色のカーネーションが五本さしてあった、固めて。根元にフリージヤと言うんですか黄ない花が、と黄なの水仙が根元にこうあしらってある。又こちらの方の右の方の端にはすずかけと云う花がありますね。
 それがさしてあったその事を頂くのです。昨日の例えば一年間を通して様々な事があったけれどもお礼を申し上げる、いわゆる年に一度の謝恩のお祭をさせて頂いた。嬉しい事だ、有難い事なんだけれども、言うならば、今は根元にあるフリージヤと云うのは、どっちにでも行けれると云う意味なんです。黄な色の水仙は、黄なと云うのは、色の御理解で頂くと、今が真ん中と云う色なんです。同じ色フリージヤの黄なと、この信心が此処にちょっと信心の熱を入れたら。
 素晴らしい信心にもなって行きゃあ、また低下するかも判らないと云うような、言うなら所にある、お知らせだと思うです。其処で何処がどう足りないかと言うとです。いわゆる、桃色のカーネーションがね、あれにもう熱をちょっと、熱と云う事は真っ赤と云う事、真っ赤な信心を、燃える様な信心をちょっとさしたら、素晴らしい事だと云う事です。なら、まあちょっと云う所は何処にその焦点を置くかと云うと、信心が見易い物になって行かなきゃならない。
 例えば兄弟が五人なら五人おられますか、その五人の皆一様と云う事ではない。昨日の御理解の様に、小学生なら小学生なりに中学生は中学、高校は高校なりにです。信心が楽しい物信心が有難い物、信心が見易い物と云う所に、おかげば頂かんならんからと言うて一生懸命お参りするのはまあ難しい。そう何時も心を張り入ると云う様な訳には行けない。そしておかげがおかげ、思う様にならなかったら、おかげを受け切らなかったとして信心が挫折する恐れすらがある。
 けれども信心を頂くと云う事はね、もうちょっと熱をかけて、お話を頂く事が楽しい。それを行ずる事は尚有難い。と云う様な信心になって行けよと云う、此のお花の中にはそう云う自然の中に神様は、天地の親神様は野口一家にこう云う物を求めておられるのですよと云うお話をさせて頂いた。そのもうちょっと熱を入れると云うところが信心でなからければならないと云う事です。またそう云う信心でなからなければです。杖になると云う事にはならない。
 「兎に角おかげ頂きますよ」おかげ頂くと云うだけの、言うならばおかげ信心では、それはまさかの時の杖にはならない。「神を杖につけば楽じゃ」と言うならば、金や金を杖につけば曲がるとか、木や竹は折れるとかと云う事は、言うならばおかげと言う意味でしょう。「おかげおかげ」と言うておかげを追う様な信心では杖にはならん。頼りにはならん。今朝からお夢を、長々としたお夢を頂いた。かい摘んで申しますと『世界中の美人コンクールがあっておる。
 コンクールと言うですかね、各国の美人が出てその美人と云うのは、女と言う意味じゃない。男も女もおる。それぞれの推薦されて出場しとる人もあるし、また自分で自信を持って出場しておる人もあると云う訳。もうその会場の広いこと広い事。けれどもまだその広いけれども、そうですねまだ半分位しかその会場に入っていない。それぞれ世界中から選りすぐられた美しい人ばかりなんですそれに合楽の一角がある。合楽にも沢山何十名か位があってね、私は文男先生が推薦しとるごたる。
 私も出とる。そして私が会場に入った瞬間にまあ愈々明日、一晩泊まって明くる日が審査と云う模様らしいんです。もう私の顔を撫でて「こげな素晴らしい皮膚のした人は初めて見た」と言うて、その人が言いよっとです。はあ明日は楽しみと言うておる。私に付いておる推薦者である所の文男先生が付いておる。それから繁雄さんがついておられる。それから一番はっきりしておったのは、佐田のお婆ちゃんもその美人コンクールに出ちゃるとです。あと沢山おったけどはっきり解らなかった。
 以前ここで合い言葉の様に言われました。「もう本気で美しゅう成ろうやと、限りなく美しゅう成ろうやと、もうどんな問題があっても美しゅう成ろうや」と言うその合い言葉を本当に唱える様に言うたらね、もう美しゅう成ろうや、そこに問題があってもその問題がその場で解決するんです。美しゅうなったら人間が。と言う程しの物です。美しいと云う事は。勿論それは器量の事ではありますまい。勿論心の器量の事です。それがなぜ今世界中から美しい人を集めて、一所へまとめてあるかと言うとです。
 此処四五日そのお話を頂いております様に、二十五年後に愈々生き残る者だけが、集められておると言う感じなんです。例えば、佐田のお婆ちゃんを私ははっきり頂いて頂いたですけれども、もう七十幾つになられて、そして毎日言うならば、そうですね、昨日は麻生さんの一家の事に付いてお話を申しましたですね。[子と遊び夫と語り、妻の春]と、あちらの奥さんがお参りをして来て、子供が今度から丸少に入ると云う事を、もう子供よりも親の方が楽しいと言った様な雰囲気の中にです。
 お届けをした時に頂いた句なんです。ならそうかと言うて、麻生さん達が毎朝お参りしておるかと云うとそうではない。何かの会合の時に、そしてまた麻生さんは時々朝参りして見えられる。奥さんは、月次祭だけには必ず三人の子供を連れてお参りをする。婦人会の会合の時には必ず出席すると云う程度である。だからその程度の人はその程度でよろしいのだと云う事なんです。なら、今日は私が佐田さん一家と云う事をお話しするなら、これはまた、一段も二段も三段ももっと上でしょうばい。
 一家中があの六年前に、寒修行から一家中で朝参りを始めて、まあ一月の積りのやつが今日まで六年何ヵ月続いておるということ。しかも焦点がどこに置いてあるかというと、七十幾つにもなるお祖母さんが、「もう私どん是でよか。拝むだけでよか」と云う様な拝み信心ではなくて、もう本気で子供たちと一緒に、孫達と一緒にです。もう限りなく美しゅうなろうと言う精進をしておると云う事なんです。
 だから、もう歳をとっとるから美しゅうならんで良いと云う事はないんだ。もう兎に角一家中にいろんな問題が、例えば問題はありますけれども、兎に角信心で有難い答を出して行っておられるのが、まあ佐田さん一家だと思うんです。まあ、言うならば、「兎に角限りなく美しゅう成りましょうや」と言うその所でです。一切の問題は有難い方へ有難い方へと解決して行く訳なんです。
 昨日は麻生さんの例をとりましたが、なら、麻生さんが今小学校ならば、なら、私は佐田さんは、まあ言うなら、大学位な所へおられるとこう思うんです。だから、小学生は小学生なりに、本当に神の杖をつくと云う、雰囲気を家庭の中に持たなきゃならない。大学生は大学生なりに、神の杖をつくと云う事、言うならば、「限りなく美しゅうならせて頂こうや」と言う、その事が信心だと言う事。和賀心と云うのは、限りない美しい心で祈る心が和賀心。昨日も敬親会でしたが、ある方が発表しておりました。
 もう腹が立ってこたえん問題があった。それでもやっぱり「金光様金光様」と御神前に出て、金光様を念じさせて頂きよったら、ふと気付かせて頂いて、こげんむしゃくしゃする。こげん腹の立つ事も生きておる印したい。死んどんならこげん腹の立つけんでと思うた。そしたら今度は有り難うなってね。する事なす事が、有り難い有り難いと云う事に、なったと言う話をお婆ちゃんがしておりました。
 そして私が今日私が皆さんに言うておる事は、その有り難いと言う心でね仕事をする、有難いと言う心で孫の事を願う、嫁の事を願うと言うのだけれどもです。その有り難いと言う心で、最近では、合楽教会大発展を願う。和賀心時代を世界に広げて行く。いわゆる世界総氏子身上安全・世界真の平和を祈らせて頂く。ただ願ったり唱えたりしておっただけではいかん。その有難いと言う心で願う。と言うふうに申しました。
 だから私共がこうして信心の稽古をそれぞれの過程を通らしてもろうて信心を進めさしてもらう。そこから生まれて来る信心の喜びを以てです。言うならば世界真の平和と申しますか、総氏子身上安全を願うと申しますか一歩前進、自分のことだけに終始しておったのが、そうした周囲の事に祈りが及んで行く。しかもその祈りの内容と云うのは喜びである。そう云う私は、喜びでなからなければ杖にはならないと思う。
 例えば、今のある予言者の言われると云う四百二十年も前に予言してある弧とが、的確にずうっと今日まで的確に起こって来た。なら、二十五年後の何月何日には地球が破滅する様な、人類が全部消えて無くなる様な事になると云う様な事をです。もうその時になってから、私はやあやあ言うたっちゃもう遅かと云う事。まあだ二十五年ある、言うならばですよ。それは有るやら無いやら判りませんよ。
 けれども、是は私が頂いておる事はです。自分で自分の首を括る様な生き方から、もう広がりに広がると云う事ね。有難いものが愈々、育って行くと云う信心させて頂く者の上には、二十五年後の例えばよしあっても、そう云う事は無いと断言して、言うならば、私に予言をしとけと言う意味の、御理解を二三日前に頂きましたですよね。だからそれはどう云う事かと言うと「信心を目指す」と云う事なんです。
 それはもうさぁあと何年になったからと言う様な事ではなくて、二十五年も前にそう言う事を言うなら、前知らせに頂いた訳です。私自身。文男さんの話を通して、私はそれを聞いた訳です。言うなら、前知らせをなさるというのですから、「このまま人類が行きよったら、本当に人類の破滅になるぞ」と、「さあ此処でいい加減、天地の親神様の心を心とした、生き方にならなければいけないぞ。」
 と言うておられるのだから、その心にならせて頂いたら、その前知らせである所の災難なら災難、難儀なら難儀と云う物も解消して行けれる、おかげを受けられると云うのが前知らせです。それが言うならば予言なんです。それをただその予言が当たった当たったばっかり言うとって、人間その物が一つも精進しようとしない。改まろうとしない。天地の道理に合うた生活をしようとしない所から矢張りそういう、なら大東亜戦争と言った様な悲惨な戦争が起こる様な結果にすらなって来るのである。
 原爆であっと云う間に全市が消えて無くなる様な結果になって来るのである。前々から予言してあるとです。ですから私共は此処で聞いた知った時点からです愈々私共が倒れぬ前の杖だと云う事です。今日の御理解は「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」と仰せられる。ならもう信心しよるけんと言うだけではなく本当に信心でなからなければならない。本当に杖になるだけの信心でなからなければいけないと云う事を聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。